案内図
旧古賀銀行
旧古賀銀行 内部
旧中村家
八坂神社
旧古賀家
旧森永家
旧牛島家
旧三省銀行
旧久富家
佐賀市歴史民俗館は、現代に残る歴史的建造物を後世に伝えるとともに、市の財産として役立てようと整備・保存されているものです。
1997(平成9)年に旧古賀銀行、旧古賀家、旧牛島家の3館が開館、その後2000(平成12)年に旧三省銀行、旧福田家が開館しました。この5館は佐賀市の重要文化財に指定されており、観光・見学施設として無料公開されている他、コンサートや展示といったイベント会場としても、広く皆さまにご利用いただいています。
2016(平成28)年4月より、旧森永家、旧久富家が追加され、佐賀市歴史民俗館は7館となりました。尚、旧森永家、旧久富家は、佐賀県遺産に登録されています。
旧古賀銀行は、両替商古賀善平が1885(明治18)年に設立した銀行です。当初の社屋は、旧中村家として保存されています。現存する建物は1906(明治39)年に新築され、1916(大正5)年に西側へ大きく増築されたものです。漆喰の外壁が煉瓦のタイル張りに変更されたのも、この時だと言われています。佐賀市の建築家・舟木右馬之助氏の設計により大規模な改修が行われ、現在の堂々とした姿になっています。
1913(大正2)年には九州の五大銀行の一つに数えられるほどに成長しましたが、1920(大正9)年以降の経済不況により業績が悪化、1926(大正15)年に休業を余儀なくされ、その後1933(昭和8)年に解散しています。
解散の翌年から1954(昭和29)年までは佐賀商業会議所、1986(昭和61)年までは佐賀県労働会館、1992(平成4)年までは自治労佐賀県本部として利用され、同年7月佐賀市の所有となりました。その2年後始まった改修工事では、昭和期の改築部分を取り払い、大正全盛期の外観・内装の復原が図られました。1995(平成7)年に佐賀市重要文化財に指定され、1997(平成9)年より佐賀市歴史民俗館として開館しています。
旧古賀家は、古賀銀行を創設し頭取を務めた古賀善平の住宅として1884(明治17)年に建てられました。その後も善兵衛、善一郎(二代目善兵衛)が居住しましたが、銀行の解散後は古賀氏の手を離れ、1954(昭和29)年からは料亭として使われていました。
街道沿いの町屋に多い切妻造ではなく、入母屋造の屋根を備えた旧古賀家は武家屋敷の様式を踏襲しています。とりわけ約50畳の大広間は圧巻です。欄間や襖、板戸といった内装にもぜひご注目ください。
現存する建物は、座敷をはじめ住宅の主要部分は良く残り、本格的な屋敷構えで格式に優れた明治期の実業家の住居遺構として貴重な存在です。
1991(平成3)年に佐賀市の所有となり、料亭時代に増改築された部分が建設当初のものに復原され、4年後の1995(平成7)年に佐賀市重要文化財の指定を受けています。
旧森永家は1800年頃から藩より命を受け、初代森永十助が煙草の製造を始めたと伝えられています。
明治になり、三代目の森永作平によって製造された「富士の煙」は、当時東京で有名だった「天狗」より香りが良いと評判を呼び、佐賀の名物の一つとなりました。その後は煙草専売化に伴い呉服店へと転じ、1934(昭和9)年まで呉服店を営んでいました。
明治時代中期に建てられ、敷地に広がる建物群は北蔵、南蔵、居宅から構成されています。長崎街道に面して建つ北蔵は、土蔵作りの二階建です。裏十間川に面して建つ南土蔵は、土蔵造の三階建で、貴重な存在です。居宅は明治前期の平屋建て、北側の主屋は座敷が残り、南側の離れとつながっています。離れは、前後に庭園を介して上品で優美な趣があります。
長崎街道に面する北蔵には、森永呉服店の看板が現在も残っています。また、初代森永十助の名、及び原料となる国分葉(薩摩藩)使用の縁で島津家「丸に十字」紋の商標も見ることができます。
2012(平成24)年度に佐賀県遺産に認定され、2016(平成28)年4月に佐賀市歴史民俗館に追加されました。
2015(平成27)年に、建物の外観は保存しつつ内部のリノベーションが行われました。現在は紅茶専門店、鍋島段通手織工房、手工芸品販売店として活用されています。
旧牛島家は佐賀市朝日町(旧下今宿町)にあった建物で、18世紀初頭に建てられ、佐賀城下では最古の町屋建築と推測されています。
19世紀半ばの『佐賀城下町竃帳』には、江戸期に咾役を務めた足軽の高楊伊助が居住し問屋業を営んでいたとあります。
また1890(明治23)年の銅板画集『佐賀県独案内』では、髙楊伊予助の店が「煙草仲買商海陸運漕店」と紹介されており、明治後期以降は油商を営んだそうです。
その後、旧牛島家が住宅・店舗・倉庫と多目的に利用されていたことが伺えます。
広大な土間を備え骨太で力強い軸組は江戸中期の特色を示しており、又、座敷の意匠や表構えの構成には明治期の特色を併せ持っています。
第二次世界大戦以降に牛島氏の所有となっていた旧牛島家ですが、1993(平成5)年の県道拡幅工事に伴い、惜しまれつつ解体されました。現存の建物は、その時の部材を組み直し、明治時代末期の姿に移築再建したもので、1995(平成7)年に佐賀市の重要文化財の指定を受けています。
旧三省銀行は1882(明治15)年に旧佐賀藩士により米穀商を株主にして銀行類似業務を行う三省社として建てられたものです。1885(明治18)年に正式な銀行として三省銀行と改めますが、順調にみえた経営は次第に傾き、1893(明治26)年には廃業に至っています。廃業後は個人が買い取って医院を1976(昭和51)年まで営業され、その後は住宅として利用されていました。
建物外観の特徴は「むくり(起り)」のある切妻屋根と防火の為の銅板扉、漆喰の壁。館内は中央の吹き抜け、傾斜のある隠し階段、2階にシャンデリア用の漆喰飾りが当時の姿で残っています。
伝統的な町屋建築の形式を取り入れる一方で、銀行に適した空間設計を心掛けた興味深い建物です。
1998(平成10)年に建物は佐賀市に譲渡され、土地は佐賀市が買取る形で市の所有となり1999(平成11)年5月に佐賀市重要文化財に指定されました。
旧久富家は、履物商を営んでいた初代久富亀一が、1921(大正10)年に「履物問屋 久富商店」として建てたものです。
旧長崎街道に面して、主屋(東棟)と土蔵(西棟)が並び建っています。主屋間口は約9m、建物の西側部分は土蔵造りです。大正期の貴重な大型町屋として重厚で存在感あふれる造りをしています。
1階の主屋と土蔵の間の通路は、今も南側の川沿いへ抜けることができ、柳町の風情を醸し出しています。
建物裏に作業所がつくられ、下駄の製造も行われ、県内中を手広く営んでいました。主屋の二階と土蔵は、在庫置場として利用されていました。
二代目の吉二は、大分県日田市にも下駄製造所を造り、朝鮮半島へ販路を広げるなど事業を拡大し、県下でも有数の履物問屋でした。営業は、1980(昭和55)年頃まで続けられたといいます。
東棟の店内には梁や土間が残り、また、「履物問屋」と横書きされた木製の看板は今も店内に掲げられ、当時の面影を残しています。
2008(平成20)年度に佐賀県遺産に認定され、2016(平成28)年4月に佐賀市歴史民俗館に追加されました。
2015(平成27)年に建物の外観の特徴を保存しつつ、内部のリノベーションが行われました。
現在、1階はカフェ、フォトスタジオが入居し、2階はスペースを分割し複数のテナントが入りアトリエやスタジオなどとして活用されています。